【闘病記①】小3の夏、すべてはここから始まった
こんにちは、花道 ユキノです♪
先に言っておきます。
タイトルの通り内容は重いです。
でもあの時は自分がまさか!という思いしかなかったので、もしも自分自身、周りの大切な人がこういう状況になったら真っ先に病気にかかっていることを知ってほしくてこの場所に残しておこうと思います。
これは腎臓病の方のお話です。
小学校は普通の公立。
一応障害を持っている人は何人かいた。
私と同じ学年にも一人だけいた。車いすに乗った男子だった。
私はすでに目が不自由というハンデを背負っているけれどこれといって特別な配慮を受けた記憶はあまりない。
私の場合、「私こんな障害をもっているんです」と言わない限り気づかれない。
苦労したのは体育の授業と遠足。
体育の授業なんてなくなればいいのにと思うほど退屈だった。
男子などは体育ばんざーいって感じだったけど。
私には正直何が楽しいのかさっぱりわからなかった。
遠足も何が楽しいのやらさっぱりわからない。ただ疲れるだけじゃない。
団体行動で遠足に行くと必ず階段を使わなければいけないから。
そしてそんな時に限って多いんだよ、階段が。
上りの階段はまだマシなんだけど下りは最悪。
踏み外したら落ちるしかないから。
怖い、怖い、怖い、怖い……。
周りの人についていけない(-_-;)
エスカレーターやエレベーターを使わせてくれればよかったのに。
生徒は私のこと知らなくても先生は私のこと知ってたのにな。
そう言ったところは配慮してほしかったと今でも思う。
小学三年生に上がり新しく習字とリコーダーを習った。
両方私にも出来るものなので嬉しかった。(うまい下手は別として)
私の身に異変が現れたのはこの夏のある時だった。
給食が食べられない。
小学生の時は主に給食だった。
メニューは牛乳・パン(ご飯の場合あり)大おかず(汁物が多い)小おかず(和え物系が多い)フルーツだ。
食パンを食べるのに一苦労した思い出がある。
食パンを食べることが一苦労ってどういうこと?と思うかもしれませんが本当に大変でした。
パンのみみを食べ終えたらそれだけで満足みたいな感じです。
他のおかずは全部食べられるのに食パンだけは食べることが出来なかった。
今思えば単に食パンが嫌いになったわけでは無かったんですね。
小学生の頃は休み時間になると男女問わず外に出て遊ぶことが多い。
教室に残っている生徒はほんのわずか。
私は外に出て遊ぶことが出来ない。
休み時間に外に出るのは危険だ。
走り回っている奴やボールで遊んでいる奴など様々な生徒が遊んでいるから。
人の気を使わない小学生は自分たちの思うままに行動している。
平気で人の前を走って行ったり、ボールが自分の所に飛んでくることもあり得る。
そう考えると怖くてとても行くなんてできなかった。
夏に外に出て遊んでいる人、あるいはクラブ活動に入っていてそれが運動部の人は肌が焼けて黒くなることがあると思うが、私は外に出て遊んでもいないのに肌が黒かった。
元々の遺伝かもしれないと思っていたけれど、それにしては黒すぎる。
しかも日に焼けた黒さならまだ納得できるが私の焦げ具合は運動場に広がる土の色にそっくりだった。
私の中でもしかしたら何かが崩れていっている。その”何か”はわからないけれど。
ある日風邪を引いた。熱を出したから病院に行って薬局にも寄った。
そこの薬局のおばさんは顔見知りだったからたまにしか顔を出さない私のことも覚えていた。
薬局のおばさんが発した言葉が衝撃的すぎてあの言葉は今でも覚えている。
「顔色が悪いね。一度大きな病院で診てもらったら?」
風邪をひいているからという意味ではなくそのおばさんは何かを察したらしい。
しかも大きな病院って。
目のほかにもう一つ私の中で壊れている場所があるのか。
まとめ
・小学三年生の夏に異変があった。
・運動部でもないのに肌がやけに土色っぽい。(体育の授業で外に出るけれどそんな短時間で焼けていたレベルではなかった)
・ご飯を食べるのが億劫になる。(特に朝・お昼が大変でした)
・自分の腕が細すぎる(これ下手したら折れるぞ。というレベル)
上記の症状がもしあれば注意したほうがいいですし、なるべく早めに大きな病院へ行くことをお勧めします。
最後に
ここまで読んでくださったみなさん、ありがとうございました(*'▽')